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百済(ペクチェ:백제)3 高句麗の南下

      2012/11/26

百済の最大版図を築いた近肖古王(クンチョゴワン:근초고왕)の没年375年に高句麗に生まれ、朝鮮の王朝として最大版図を築いた征服王で、太王四神記の主人公にもなった第19代高句麗王・広開土太王(クァンゲトテワン:광개토태왕)の出現により、百済(ペクチェ:백제)の領土はたった数十年で大幅に縮小します。

広開土太王は18歳で即位した後、高句麗の北西にある契丹族の一派の領土を征服しました。そして、念願だった百済への侵攻に乗り出します。先に殺害された第16代高句麗王・故国原王(コググォンワン:고국원왕)の復習戦ともいえます。

 

広開土太王地図を見てもわかるように百済の領土は、近肖古王の治世と比べると縮小しています。

広開土太王の次の王・第20代高句麗王・長寿王(チャンスワン:장수왕:在位413-491)は版図が拡大したことにより、427年首都を国内城から平壌城へと遷都します。

一貫した南下政策をとった長寿王は475年に漢城(ハンソン:한성)を陥落させ第21代百済王・蓋鹵王(ケロワン:개로왕)を殺害しました。

この475年が漢城都邑期(ハンソンドウプギ:한성도읍기)の終わりで、百済は必然的に南下し錦江(クムガン)流域の熊津(ウンジン:웅진:現在の公州)へ遷都します。これ以降538年までが熊津都邑期(ウンジンドウプギ:웅진도읍기)です。

このまま行くと共倒れになりかねないため、百済は新羅と同盟を結びます。一旦高句麗からの侵攻を防いだことにより、て国防と国内整備を行い第26代百済王・聖王(ソンワン:성왕:在位523-554)の治世中の538年には平地の泗沘(サビ)へと遷都し、国号を南扶餘(ナムブヨ:남부여)とします。これ以降を泗沘都邑期(サビドウプギ:사비도읍기)といい、660年に百済が滅亡するまでの首都は泗沘城のままでした。

551年、聖王は新羅とともに王位継承争いで混乱していた高句麗を攻め、漢江(ハンガン)流域を奪還します。ところがその後、新羅の裏切りにあい、管山城(クァンサンソン:관산성)での戦いで新羅に大敗、聖王は戦死します。544年のことでした。

日本に仏教を伝えたのは聖王といわれており、強い同盟関係にありました。

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百済(ペクチェ:백제)3 高句麗の南下

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