韓国歴史ヒストリア

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辛未洋擾(シンミヤンヨ:신미양요)

      2018/08/22

定義

1871年/高宗(コジョン:고종)8年、アメリカ・アジア艦隊が1866年のゼネラルシャーマン号事件を口実に、朝鮮を開港させようと江華島(カンファド:강화도)を攻め、武力侵略した事件。

辛未は干支。

アメリカ側での呼称は、「Korean Campaign 1871」「United States-Korea War of 1871」「Korean Expedition:朝鮮遠征」などがある。

日本語の読みは「しんみようじょう」

 

※以降の文に「米」と「美」の文字を使用しているが、ともにアメリカのことを指す。

朝鮮半島ではアメリカを美国と称する。現代でも使用されている。

※韓国側の歴史的評価は結果的に勝利し開港を免れたとの見解のようだが、アメリカにしてみれば戦術的小競り合いに勝利したに過ぎないようだ。

 

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江華島・草芝鎮 辛未洋擾(シンミヤンヨ:신미양요:1871)

戦場となった江華島・草芝鎮(チョジジン)の地図

 

 

 

歴史的背景

アメリカは1866年8月、平壌大同江(ピョンヤン テドンガン)でのジェネラル・シャーマン号(General Sherman号)事件を契機に、朝鮮の開港問題に積極的な関心を持ち始めた。

事件発生後、アメリカは2度の探問航行を実施した。

また、ジェネラル・シャーマン号事件を戒め、これに対する損害賠償を請求するとともに、朝鮮と通商関係を樹立するため、2度も朝鮮遠征計画を樹立したものの、実践には移せなかった。

 

 

辛未洋擾(シンミヤンヨ:신미양요:1871)

無血占領された徳津鎮(トクジンジン)

 

 

 

経過

その後、1871年、アメリカは伝統的な砲艦外交により朝鮮を開港させるため、ついに朝鮮遠征を決定した。

駐清アメリカ公使ロウ(Low,F.F.)に全権を委任し、アジア艦隊司令官ロージャス(Rodgers,J.)に海軍艦隊を動員させ朝鮮遠征を命じた。

ロジャースは旗艦コロラド号(Colorado号)をはじめ、アラスカ・パロス・モノキャッシュ・ベネシアの軍艦5隻に、水兵1,230人、艦載大砲85砲を積載した。

 

5月上旬、日本の長崎に艦隊を集結、約半月の間に海上機動演習を実施し、5月16日、朝鮮遠征に向かった。

ロジャースは、朝鮮側が平和的交渉を拒否する場合は、武力誇示や軍事作戦により強制的に立約を成就させるという包含的策略を樹立し、仁川(インチョン)の沖合に侵入した。

ロジャースはソウルへ行くための水路を探索するため、江華海峡を探測すると朝鮮代表に一方的に通告した。

 

そして6月1日、江華海峡の探測航行を強行した。

艦隊が孫乭項(ソンドルモク:손돌목)に達すると、沿岸の江華砲台から奇襲攻撃を受けて、美朝間に最初に軍事的衝突事件が起こった。

これを「ソンドルモク砲撃事件」という。

アメリカ代表は、朝鮮側に平和的に探測活動を行っている米軍艦隊に対する砲撃は、非人道的野蛮行為だと非難した。

そして、朝鮮の代表を派遣して交渉するよう、砲撃事件に対する謝罪と損害賠償をしてもらうことなどを要求した。

 

もしこのような要求条件を拒否すれば、10日後に報復上陸作戦を行うと威嚇した。

朝鮮側は江華海峡は、国防安保上最も重要な水路であることから、米軍艦隊が朝鮮当局の正式許可なしに航行したのは主権侵害であり、領土侵略行為だと糾弾し、交渉や謝罪をきっぱりと拒否した。

平和的交渉が決裂すると、アメリカは6月10日、草芝鎮(チョジジン:초지진)上陸作戦を断行した。

上陸軍部隊を十個中隊に編成し、砲兵隊・工兵隊・医務隊、そして写真撮影班などが動員された。

水陸両面攻撃を開始し、歴史上初めて朝美戦争が発生した。

 

アメリカ軍は艦上、艦砲射撃で草芝鎮(チョジジン)を完全に焦土化し占拠した。

アメリカ軍は6月11日には徳津鎮(トクジンジン:덕진진)を無血占拠した。

最後に、広城堡(クァンソンボ:광성보)作戦を遂行した。

広城堡には鎮撫中軍(チンムジュングン:진무중군)魚在淵(オ・ジェヨン:어재연)が率いる朝鮮守備兵600人あまりが配置されていた。

 

アメリカ軍は水陸両面砲撃を一時間行った末に広城堡を陥落させた。

広城堡の戦闘でアメリカ軍側の記録によれば、アメリカ軍は戦死者3人、負傷者10人で、朝鮮軍は戦死者350人、負傷者20人だったが、朝鮮側の記録によれば、朝鮮軍戦死者は57人になっており多少の違いがある。

※高宗実録の補足では死亡53名、負傷者24名となっている(高宗8年4月28日2番めの記録で確認済み)

 

アメリカ軍は広城堡を占拠して帥字旗(スジャギ:수자기)を奪い、星条旗を掲揚、戦勝を祝った。

魚在淵はこの戦闘により戦死している。

また、一連の先頭はアメリカ・アジア艦隊のはじめての戦闘となった。

 

 

辛未洋擾(シンミヤンヨ:신미양요:1871)

辛未洋擾で戦死した魚在淵将軍の将軍旗(帥字旗)がアメリカ海軍コロラド号に載せられている。

魚在淵将軍旗は136年が過ぎた2007年に、韓国に賃貸される形で戻った。

 

 

 

 

結果

アメリカ軍の江華島侵入は明らかな帝国主義的侵略戦争だった。

しかし、アメリカは最初から軍事的に朝鮮を征服、支配して領土分割や植民地化するための侵略戦争を計画したものではなかった。

 

包含策略により朝鮮を武力的に屈服させ朝鮮開港を実現させようとする一時的な侵略戦争だったという点で、西欧列強の帝国主義的侵略戦争とは性格が根本的に異なる。

中国・日本・東南アジアなど、様々な国には、アメリカの砲艦外交が大成功を収めたが、1871年の大韓砲艦外交政策は完全な失敗に終わった。

アメリカは興宣大院君(フンソンデウォングン:흥선대원군)の強い鎖國壤夷政策(スェグクヤンイジョンチェク:쇄국양이정책)にぶつかり朝鮮開港を断念し、7月3日、艦隊を撤退した。

朝鮮側は朝美戦争で完全に敗戦したが、米軍艦隊の撤退をそのまま敗退と見做した。

 

その結果、排外感情がより高まった。

アメリカが、南北戦争以来最大規模の海軍兵力を動員し朝鮮遠征を断行した至上の目標は、朝鮮の開港だった。

しかし、朝美戦争の結果、朝鮮開港は無為に終わった。

 

 

辛未洋擾(シンミヤンヨ:신미양요:1871)

USSコロラド号で辛未洋擾参戦記念写真を撮影した将校

 

 

失敗要因は、多くの面で探すことができる。

 

第一に、アメリカは朝鮮当局との立約交渉で和解的交渉を止揚し、終始一貫して包含策略に対処したということだ。

物理的力で朝鮮を屈服させて開港させようとした。

第二に、文化的背景の違いについての相互理解が足りないということだ。

 

第三に、朝鮮が徹頭徹尾、アメリカとの不交渉の態度を堅持していたということだ。

洋夷に対する不信感と排外感情が強い朝鮮は、アメリカ軍をオランケ(蛮族)とみなした。

一方、アメリカ軍は白人優越思想を持ち朝鮮を好戦的野蛮国と見做した。

これにより両国間の和解的交渉は不可能だった。

 

第四に、アメリカは朝鮮遠征を断行する時、初めから朝鮮と戦争を覚悟して江華島に侵入したということだ。

江華海峡は歴史的に外国の船の出入りが禁止されている軍事的制限地域だった。

そのため海峡の入り口には外国の船の航行を禁止するいわゆる「海門防守他國船愼勿過碑」が立っていた。

このように、国防安保上、重要な水路に正式な許可なくアメリカ軍艦隊が入ってきたのは厳然たる主権の侵害であり、領土侵略行為だった。 そのため朝鮮側はこれを闖入(突然侵入する)または内反として断罪している。

 

第五に、1871年当時、朝鮮はまだ開港環境が造成されていない中、米軍艦隊を迎えたということだ。

アメリカは1854年の日本の開港成功を歴史的教訓として、1871年にも同様の結果を期待した。

しかし、朝日両国の開港環境は正反対だった。

日本はすでに1641年に長崎に和蘭商館を設置、欧州列強と交易しながら、ヨーロッパの先進文物を収容していた。

そのため日本は1854年にペリー(Perry,M.C.)のアメリカ軍艦隊が侵入した時、一滴の血も流すことなく平和裏に日米条約を締結した。

しかし、朝鮮は長崎のような交易港もなく、両班指導層は依然として西欧文物にうとかったために、開港はすぐ亡国の様だと、鎖国政策を固守した。

 

 

斥和碑 辛未洋擾(シンミヤンヨ:신미양요:1871)

斥和碑(チョクファビ:척화비)

 

 

何よりも重要な事実は、朝鮮開港のカギを握っている清が朝鮮開港に反対したということだ。

清は朝鮮が開港すれば、対韓宗主権(テハン チョンジュコン:대한종주권)が喪失されると憂慮したためだ。

清は朝鮮が続けて鎖国政策を固守し、朝清間の伝統的な朝貢関係を維持することを希望した。

結局、衛正斥邪(ウィジョンチョクサ:위정척사)思想に浸っている興宣大院君は、朝美戦直後の鎖国洋夷政策をさらに強化し、全国各地に斥和碑(チョクファビ:척화비)を立てて、洋夷との和親は売国であり亡国行為だと警戒した。

 

当事件を題材にしたドラマに、イ・ビョンホン主演のミスター・サンシャインがある。

 

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