韓国歴史ヒストリア

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顕宗(ヒョンジョン:현종)

      2014/06/12

顕宗(ヒョンジョン:현종)

朝鮮第18代王

生存年:1641年(仁祖19)~1674年(顕宗15)

在位期間:1659~1674

諱は棩(ヨン:연:木偏に淵の旁)  字は景直(キョンジク:경직)

顕宗(ヒョンジョン:현종)

※画像はドラマ馬医(マイ/ばい:마의)での顕宗役のハン・サンジン

 

第17代孝宗(ヒョジョン:효종:1619-1659)の長男で母は右議政・張維(チャン・ユ:장유)の娘・仁宣王后(インソンワンフ:인선왕후:1618-1674)

后は領敦寧府事(ヨンドンニョンブサ:영돈녕부사 )金佑明(キム・ウミョン김우명)の娘・明聖王后(ミョンソンワンフ:명성왕후:1642-1683

父・孝宗が鳳林大君(ポンリム テグン:봉림대군)だった頃、清の人質として瀋陽似いた時に瀋館で生まれる。

顕宗(ヒョンジョン)は弱い王の典型だった。数十年前に相次いで起こった外敵(日本と清)の侵入で疲弊しきった 朝鮮王朝は国体を維持するのがやっとで、国家として発展するための施策を施行する国力がなかった。そのため、功績と言われているもののほとんどは先王以前からの制度を広めた程度だ。

 

顕宗代を代表する歴史的出来事といえば、服喪期間をめぐって2度にわたり臣下が激しく対立した禮訟(礼訟:イェソン:예송)が挙げられる。

影の主人公は第16代仁祖(インジョ:인조)の継妃・莊烈王后(チャンリョルワンフ:장렬왕후:1624-1688)で当時の大王大妃趙氏だ。

彼女は当時としては比較的長命の65歳で亡くなったのだが、その前に義理の息子である孝宗(ヒョジョン)と孝宗の后・仁宣王后(インソンワンフ)に先立たれたために、喪に服さねばならなかった。

そこで政権与党の西人(ソイン:서인)と野党の南人(ナミン:남인)が対立したのだが、当初は学問的対立だったものの、次第に政争に発展していった。

孝宗の死による礼訟は己亥禮訟(己亥礼訟:キヘイェソン:기해예송)といい、西人の強引な主張が通り、南人が主張する三年喪ではなく、期年(キニョン:기년)喪が採用され1年の喪服期間となった。

けれどこれは、父王を庶子(妾子ではなく嫡男でないという意)として扱う西人に対する顕宗(ヒョンジョン)の忸怩たる思いを誘発していた。

そのため、15年後の1674年に母・仁宣王后(インソンワンフが亡くなった際には、積年の恨みを晴らすべく、筋の通らない主張をした西人を弾劾し、ついには50年続いた政権与党の座から引き摺り下ろしたのである。甲寅禮訟(甲寅礼訟:カビンイェソ:갑인예송)

その後すぐに当の本人が亡くなってしまい、本格的な血を伴った政争は、息子の粛宗(スクチョン:숙종)に引き継がれることとなる。

 

その他、顕宗の治世における出来事として有名な事柄は以下の通り。

  • 1653年に済州島に漂流したハメル等8人が14年間の抑留生活から1666年に脱出・逃亡した。後にハメルは和蘭船濟州島難破記-ハメル漂流記(ハメルピョリュギ:하멜표류기)と、その付録の朝鮮國記(チョソングッキ:조선국기 )を執筆。
  • 1654年/1658年 羅禅征伐/羅禪征伐(ナソン チョンボル:나선정벌) 詳しくは → 馬医7話 清から朝鮮への出兵要請はあったのか?羅禅征伐
  • 1669年1月4日(顕宗10/康熙8)の同姓婚の禁止 詳しくは → 宋時烈(ソン・シヨル)と不娶同姓

 

顕宗の姉妹(顕宗も含む)。彼以外は全て女。

  1. 淑愼公主(スクシンコンジュ숙신공주:1635-1637)
  2. 淑安公主(スガンコンジュ:숙안공주:1636-1697)
  3. 淑明公主(スンミョンコンジュ:숙명공주:1640-1699)
  4. 顕宗(ヒョンジョン:현종:1641-1674)
  5. 淑徽公主(スクフィコンジュ:숙휘공주:1642-1696) ※ドラマ馬医に唯一登場する
  6. 淑靜公主(スクジョンコンジュ:숙정공주:1645-1668)
  7. 淑敬公主(スッキョンコンジュ:숙경공주:1648-1671)
  8. 淑寧翁主(スンニョンオンジュ:숙녕옹주:1649-1666)  安嬪 李氏(アンビン イシ안빈 이씨)の娘

 

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