韓国歴史ヒストリア

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沈温(シム・オン)

      2013/01/29

沈温(シム・オン:심온:1375?-1418)

朝鮮第4代世宗(セジョン:세종:在位1418-1450)李祹(イ・ド:이도)の正妃・昭憲王后(ソホンワンフ:소헌왕후)の父です。

根の深い木ではトルボク(チェユン)とタミ(ソイ)が沈温(シム・オン)の家の奴婢という設定です。

陰謀により沈温(シム・オン)が死に追いやられ、奴婢も同様に罪に問われたことからストーリーが動き始めます。フィクションがふんだんに織り込まれている根の深い木ですが、このことは史実として有名なエピソードです。

 

沈温(シム・オン)は朝鮮開国功臣の青城伯(チョンソンベク:청성백)沈德符(シム・ドクブ:심덕부)の息子で、高麗時代に若くして文科に合格し、父と共に朝鮮開国に尽力しました。

忠寧君(チュンニョングン:충녕군:のちの世宗でこの時はまだ君号)に娘が嫁いだことから、順調に昇進し、大司憲(テサホン:대사헌)や各種判書を歴任しました。

 

沈温(シム・オン)の運命が大きく変わるのは、第3代太宗(テジョン:태종) 李芳遠(イ・バンウォン:이방원:在位1401-1418)の長男・讓寧大君(ヤンニョンテグン:양녕대군)が廃世子とされ、娘婿の忠寧大君(チュンニョンテグン:충녕대군)が世子となり、次いで王になったことによります。沈温(シム・オン)は国舅(クック:국구)となり青川府院君(チョンチョンプウォングン:청천부원군)に冊封されました。

このとき太宗は崩御したわけではなく、若い国家を磐石なものとするためにあえて譲位し、上王(サンワン:상왕)として軍権を持ち君臨していました。

警戒心と猜疑心から外戚が増長することを好まず、自身の正妃・元敬王后(ウォンギョンワンフ:원경왕후)の実家・驪興閔氏(ヨフンミンシ:여흥민씨)の義兄弟たちをことごとく粛清し亡き者にしています。

そして、先年に起きた悲劇がまた繰り返されるのです。

 

沈温(シム・オン)は世宗の即位年・1418年に臣下の最高位・領議政府事(ヨンイジョンブサ:영의정부사)となります。(当時は領議政をこのように呼んでいました) そして、謝恩使(サウンサ:사은사)として明へ行くこととなります。このとき、多くの人々が彼の見送りに出向いたことが太宗の嫉妬心と猜疑心を煽ったとも言われています。

沈温(シム・オン)が朝鮮を留守にしている束の間に、弟の沈泟(シム・ジョン:심정)と兵曹判書(ピョンジョパンソ: 병조판서 )朴習(パク・スプ:박습)が、兵事を稟議しないで処理した罪で捉えられます。

一旦収束するかに見えたこの一件は、左議政(チャイジョン:좌의정)朴訔(パク・ウン:박은)の換言により、大逆罪としてぶり返され両名は最終的に処刑されます。そして沈温(シム・オン)も明からの帰りに無実の罪により国境の町・義州(ウィジュ)で逮捕され、水原まで押送されたのち、ついには死に追いやられました。

世宗昭憲王后(ソホンワンフ)に父の処分の撤回を懇願されたものの上王に抗えず、涙を飲んで命に従いました。

沈温(シム・オン)は死の間際、朴訔(パク・ウン)への怒りを顕わにし「朴家とはけっして婚姻してはならない」との遺言を残しました。この遺言は長い間守られたと伝えられています。

 

太宗の正妃の家門・閔氏はその増長が目にあまり粛清を受けましたが、沈温(シム・オン)は大司憲(テサホン)を務めていることからもわかる通り実直で、良い人柄だったと伝えられています。

当時からも冤罪であることは明白でしたが、世宗の代では父王の誤りを直接正すことになるため、身分は回復されませんでしたが、世宗の子・第5代文宗(ムンジョン:문종)が王位につくと身分が回復されます。

和親を好み安であると安孝公(アンヒョゴン:안효공)という諡号を贈りました。

これは文宗の外祖父孝行のみならず、父の復権を願って亡くなった母・昭憲王后(ソホンワンフ)への孝行心によるものだったのでしょう。

 

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