韓国歴史ヒストリア

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仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)2

      2014/02/02

仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)廃庶人(ペソイン:폐서인)となり6年経った1694年4月1日、粛宗(スクチョン:숙종)はふたたび換局を行い、南人(ナミン:남인)を追い出し西人(ソイン:서인)を登用した。

これを甲戌換局(カプスルファングク:갑술환국)という。

当初は廃妃閔氏に対する復位運動を是とせず、逆に処罰の対象としていたが、すぐに心変わりし、4月9日には王宮に向かい入れるべく命を出し、4月12日には王妃への復位を下命した。

これと同時に中殿(チュンジョン:중전)の座に上っていた張氏(チャンシ)を嬪(ヒビン:희빈)に降格させた。

金春澤(キム・チュンテク:김춘택:1670~1717)による閔氏重定運動についてはチャン・ヒビン3を参照のこと。

仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)

老少の争い

このときにも先年来からの西人内での派閥闘争が繰り広げられる。老論(ノロン:노론)少論(ソロン:노론)だ。

老論が閔氏(ミンシ)の復位を主張したのに対し、少論は張氏(チャンシ)を中殿のまま、閔氏を王宮に戻すべきと主張したためだ。

この流れで後年、老論は淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)の息子・昑(クム:금)[のちの延礽君(ヨニングン:연잉군)さらに英祖(ヨンジョ:영조)]を擁護し、少論は禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)の息子・昀(ユン:윤:後の景宗)を擁護することとなる。

 

死の原因

領議政(ヨンイジョン: 영의정)であり少論の領袖の南九萬(ナム・グマン:남구만)の仲裁により、一旦の歩み寄りはあったが、これ以降、老論と少論の軋轢は大きなものとなる。

復位後8年経った1701年に仁顕王后(イニョンワンフ)は身罷る(みまかる)。 その死について生前、仁顕王后は、自身の体調がすぐれないのは、禧嬪張氏による呪詛が原因だと言っていた。

そして、その罪を暴く上で淑嬪崔氏による粛宗への諫言が決定的だったと粛宗実録(スクチョンシルロク:숙종실록)には記されている。

実際には腫気(チュンギ:종기:デキモノ)の毒素が全身を回り心疾患を引き起こしたと言われている。 デキモノで死ぬとはと思うかもしれないが、現代のガンにも相当するやっかいな病気で、歴代の王の多くもこれが原因で亡くなっている。

 

名門の出で貞淑でありながらも嫉妬心も持ち合わせていた仁顕王后(イニョンワンフ) 。

ドラマでは貞淑な面ばかりがクローズアップされており、悲劇のヒロインのような描き方ばかりされるが、その女心や派閥闘争も絡めて、もう少し多面的に捉えるべきかもしれない。

廃位された際のエピソードはトンイ考仁顕王后が廃庶人になった本当の理由にまとめています。

 

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