韓国歴史ヒストリア

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百済(ペクチェ:백제)2 近肖古王(クンチョゴワン)

      2012/11/26

 始祖・温祚(オンジョ:온조)から350年以上下り、歴史書にその存在が初めて確認される百済王は、百済(ペクチェ:백제)第13代王近肖古王(クンチョゴワン:근초고왕)で在位期間は346〜375年です。百済の最大版図を築いた三国時代の初代征服王です。

既述のように朝鮮半島の歴史書は1145年の三国史記まで下らなければ百済について記載しているものはないので、他国の歴史書からその功績を紐解いていかなければなりません。その歴史書で主なものは、意外かもしれませんが古事記と日本書紀という日本の史書なのです。

古事記には照古王(チョゴワン:조고왕)、日本書紀には肖古王(チョゴワン:초고왕)、中国の晋書(チンソ:진서)には餘句(ヨグ:여구)という名で表されています。

中央集権化に成功した近肖古王(クンチョゴワン)は南下政策を取り、現在の全羅道全域にあたる馬韓(マハン:마한)一帯を征服し、後門の憂いをなくしたところで不倶戴天の敵、南下政策を取る北の大国高句麗(コグリョ:고구려)と対峙します。

371年の平壌城(ピョンヤンソン:평양성)の戦いで高句麗王・故国原王(コググォンワン:고국원왕)を戦死に追いやり、帯方(テバン:대방)を征服しました。

遼西
当時の百済は朝鮮半島外にも積極的に活動の幅を広げています。

当時の朝鮮半島内では弱小国だった新羅(シルラ:신라)とは友好関係を築くことで、朝鮮半島内の勢力均衡策をとりました。

歴史家の間で意見が分かれるところですが、中国大陸にも進出したとされています。遼東半島の西側一帯・遼西(ヨソ:요서)を征服したと主張する歴史家もいますが、個人的には出張所的な拠点を作ったに過ぎないと思います。(画像左側の緑色の地帯が遼西)

日本へは七支刀を下賜(韓国説)したり、阿直岐(アジッキ:아직기)を派遣したりと、文化の伝搬に大いに貢献しました。この時に千文字や論語が伝わったと言われています。

また、実在は確認されていないものの、阿直岐は王仁博士(わにはかせ)を百済から招聘したといわれています。百人一首の前に読まれる難波津の歌「なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな」は、この王仁が読んだものとされています。

内国では、百済初の史書・書記(サギ:서기:逸失本)を博士(パクサ:박사)高興(コフン:고흥)が編纂しました。

このように、文武両面で百済(ペクチェ:백제)を大国にしたのが近肖古王(クンチョゴワン:근초고왕)です。

彼の没年375年、天の意思は百済にではなく高句麗に傾きます。朝鮮の王朝で最大版図を築いた征服王、のちの広開土太王(クァンゲトテワン:광개토태왕)が誕生します。

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