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王女の男22話 錦城大君、端宗、鄭悰の死 実際には?

      2012/12/09

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王女の男(原題:公主の男:コンジュエ ナムジャ:공주의 남자)22話。

今回は歴史的引っ掛かりがあまりにも多すぎて、何を解説すればいいか迷うほどでした。

それでは、ある程度時系列にそって見ていきましょう。

1457年(世祖3)6月21日、端宗(タンジョン:단종)上王(サンワン:상왕)から魯山君(ノサングン:노산군)に降封(カンボン:강봉)されます。

同年10月9日に錦城大君(クムソンテグン:금성대군)が謀反を企てていることを、配流先の奴婢が密告し発覚。讓寧大君(ヤンニョンデグン:양녕대군)ほか多数の宗親(チョンチン:종친)や臣下が錦城大君と魯山君(ノサングン)を殺すように進言します。讓寧大君にいたっては日を変えて3度も要求するほどでした。

当初は殺す決断を回避し続けた世祖(セジョ세조)でしたが、ついに決断を下します。これについては本当に殺したくなかったのか、機が熟すまで待っていたのかはわかりません。

同年10月21日、錦城大君(クムソンテグン)を賜死としました。けれども、魯山君(ノサングン)については自殺したという不可解な書き方がなされています。外史では賜薬を飲みあぐねている魯山君(ノサングン)を絞殺したと伝えられています。魯山君は享年17歳でした。

その後200年以上経ち、第19代粛宗(スクチョン:숙종)の治世の1681年(粛宗7)に魯山君(ノサングン)は大君(テグン:대군)として身分が回復され、1698年(粛宗24)にようやく廟号として端宗(タンジョン:단종)の名が贈られます。

それに伴い翌年に粛宗の後宮崔氏が、内命婦の最高位 嬪(ピン:빈)に封じられ淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)となったことは、トンイの年表で以前紹介しています。

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端宗(タンジョン)についての悲しいエピソードは枚挙に暇がありませんので割愛します。ただ、一つだけ挙げると、彼は歴代朝鮮王の中で最も年若くして死にましたが、彼の妃・定順王后(チョンスンワンフ:정순왕후)宋氏(ソンシ:송씨)は中殿(チュンジョン:중전)経験者として、最も長寿を全うし、82歳まで生きながらえました。

 

さて、鄭悰(チョン・ジョン:정종)ですが、ドラマを見た限りでは同時期に死んだ印象を受けたのではないでしょうか?実は彼だけは数年生きながらえます。けれど、1461年に僧侶ソンタン(성탄)などと計画した謀反が発覚して、同年10月20日に陵遅處斬(ヌンジチョチャム:능지처참)の刑が執行されました。

ドラマでは牛車で四肢と首を引っ張る車裂刑(コヨルヒョン:거열형)が行われましたが、本来、陵遅處斬は切れ味の悪い刀を使い、手足や肩、胸などを切り取り 、最後に心臓を刺し、首を切って殺しす、最も残酷な死刑方法です。丘をゆっくり上下する かのように、徐々に最大の痛みを与えいくのでこの名がつけられています。さすがにテレビでは映せませんね(汗)

残された敬惠公主(キョンヘコンジュ:경혜공주)は12年後に亡くなります。鄭悰(チョン・ジョン)の死後は髪を下ろし尼となり貧乏暮らしをしたと実録にはあります。

世祖(セジョ세조)は彼女やその息子には連座制を適用しませんでした。世祖の妃・貞熹王后(チョンヒワンフ:정희왕후)の猛反対を受けたこともあり、良心の呵責に苛まれたためかもしれません。

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