韓国歴史ヒストリア

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王女の男16話 首陽大君即位 温寧君の死は史実?

      2012/11/26

王女の男(原題:公主の男:コンジュエ ナムジャ:공주의 남자)16話。

1455年閏6月11日、ついに首陽大君(スヤンテグン:수양대군)が王の座につきました。

本題に入る前に温寧君(オンニョングン:온녕군)の死について説明しておきます。

ドラマではスンユに殺されてしまいましたが、朝鮮王朝実録を見ると1454年(端宗2)5月12日に「卒」と書かれています。普通に亡くなった場合にはこのように書かれますし、特に死因の説明もありませんでしたので単なる病死です。

それにしても、韓国のオンラインには百科事典が数種類あるのですが、とても間違いが多いのです。彼の死亡年もすべての辞典が1453年としているのですが、正しくは1454年です。実録を見れば間違え様がなく日付までわかるのです。当サイトでも間違った表記のままになっているところがあるかもしれませんので、あしからず(汗)

王女の男で讓寧大君(ヤンニョンデグン:양녕대군)ではなく温寧君で話を進めたのは、死亡年次がストーリーに都合が良かったからだと思われます。それでも首陽の即位までには1年以上の開きがありますので、最善の選択だったとも言い切れません。このあたりは韓国ドラマの愛嬌といったところでしょう。

 

さて、首陽が即位したのは閏6月で、3年に一度の閏月でした。この前の付きは6月で、この年に限っては1年は13ヶ月です。月齢を基準とした陰暦の場合、年間11日のごさが生まれるため、このように3年に一度一月増えるのです。

世祖(セジョ세조)実録を見ると、1455年は世祖一年になっています。これは後世付加された分類で、当時は中国の明王朝の元号を使っており、このような表現はされていないのですが、王位継承が譲位によって行われているため、実録にも他の王の時とは違い「元年」と表記されています。

といっても、ピンときませんよね?日本の場合は1年のうちに2つの元号を使いますよね?昭和64年と平成元年はおなし年です。けれども、朝鮮の場合には王が死んでも次王の1年とはならず、即位年としてカウントし、翌年を新王の1年とします。

 

この日はまず、政敵の流刑についての談義が書かれており、実はこの日に鄭悰(チョン・ジョン:정종)は端宗の育ての親で世宗(セジョン:세종)の恵嬪(ヘビン)と内通しているという理由で寧越に流刑が決定しています。ドラマのようにスンユの心配をしている余裕は本当はなかったのです。

譲位の名目上の理由は以下のとおりです。

「予幼沖不知中外之事, 致姦黨竊發, 亂萌未息, 今將以大任傳付領議政。」

読み下すと「予は年齢が幼く中外のことを知らないために、ずるがしこい輩がひそかに発動スルにいたり、乱を企てる芽が終息しないから、もう大任を領議政に伝えようとする。」となります。これは直に言ったのではなく宦官が右議政(ウイジョン)韓確(ハン・ファク)らに伝えた言葉です。

もちろん、韓確らは反対します。けれど、今度は端宗自ら「前日から決めていたことで、もうそれを覆すことはできない」と言い、大宝(テボ:대보)を持ってこさせます。ドラマ内でもこの言葉を使っていましたが、玉璽のことです。これを持ってきたのは当時、同副承旨(トンブスンジ:동부승지)だったあの有名な成三問(ソン・サンムン:성삼문)です。

そして、泣きながらひれ伏している首陽に手渡しました。そうあっては受け取らないわけにはいかず、ひれ伏したまま玉璽を受け取ります。その後、大君庁へ行き翼善冠(イクソングァン)をかぶり袞龍袍(コンリョンポ)をまとい、勤政殿の庭へ文武百官を従えて行き禅位を受けます。

禅位教書(ソヌィ キョソ:선위 교서)には先述したように、自らの幼さのため悪漢がはびこるため、宗廟と社稷を守護することを叔父に委ねると書かれています。

もちろんこれは、首陽を正当化した文章で、実際には簒奪以外の何物でもありませんでした。ただし、こうせざるを得なかった首陽の事情もあるため、完全な悪として片付けるべきではありません。

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