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王女の男15話 錦城大君の逮捕理由は本当は姦通事件だった!?

      2012/11/26

王女の男(原題:公主の男:コンジュエ ナムジャ:공주의 남자)15話。

安平大君(アンピョンテグン:안평대군)を始末した首陽大君(スヤンテグン:수양대군)の次のターゲットは錦城大君(クムソンテグン:금성대군)でした。

王女の男では駙馬(プマ)の鄭悰(チョン・ジョン:정종)も首陽暗殺に加担しているとして投獄されましたが、史実ではまだこの時にはなんの処分も受けていません。

それでは、錦城大君が冤罪を被った過程はどのようなものだったのでしょうか?

 

朝鮮王朝実録を見るとその様子がよくわかります。まず、1455年2月4日には端宗(タンジョン:단종)以下王族たちが首陽宅で宴会を開いています。このとき錦城大君も鄭悰(チョン・ジョン)も宴会に参加しています。この時には見せかけの和は維持しています。

そして同月27日の記録に冤罪に陥れられた記録が出てきます。錦城大君(クムソンデグン)宅で武人などを集めて弓の技術を競う射宴(サヨン:사연)を行った際のことです。

まず、大勢の武人を集めたことが問題となりました。実録には、射宴をしたことを隠していたとありますので、癸酉靖難(ケユジョンナン:계유정난)以降、首陽は武力行使を警戒して射宴なり武人の集合を事前申請が必要な事としていたのでしょう。

そして、その宴の際に世宗(セジョン:세종)の9男・和義君(ファウィグン:화의군)李瓔(イ・ヨン:이영)が弟の平原大君(ピョンウォンデグン:평원대군)の妾・楚腰輊チョ・ヨゲン(초요갱)寝取るという事件が起きました。和義君は優秀な人材でしたがそれと同時に何度も問題を起こしています。

これが首陽側にとっては錦城大君(クムソンデグン)やその周辺を弾劾する絶好の好機となりました。弟が起こした姦通事件を巧みに利用して、問題をを大きくしていったのです。これにはもちろん、韓明澮(ハン・ミョンフェ:한명회)権覧(クォン・ラム:권람)が介入しています。

この日以降の3月9日の記述を見ると「錦城大君には罪はない」とされているのですが、武人が集まって事を起こしでもしたらどうするのかというタラレバな理由をつけて罪人とされてしまいます。ただし、あまりにも無理な難癖であったため、後に撤回されます。けれども、錦城大君と首陽との間が決定的に険悪な状態になったことは火を見るよりも明らかです。

 

錦城大君(クムソンデグン)と鄭悰(チョン・ジョン)の関係性はどうだったのでしょうか?

3月21日の記録を見ると、錦城大君が鄭悰に官服のベルト様の飾り金帯(クムデ:금대)を贈って結託したとあります。かつて鄭悰が「首陽を殺すのは当然ではない」と言ったとも記載されています。逆に言うと、首陽を暗殺する意見が錦城大君周辺から出ていたということになります。

この記事には錦城大君が世宗(セジョン)の後宮で端宗(タンジョン)の育ての親・恵嬪(ヘビン:혜빈)とも結託したとあります。

また、同時期に粛清された有名な宦官に嚴自治(オム・ジャチ:엄자치)がいます。彼は世宗(セジョン)にも文宗(ムンジョン)にも寵愛された宦官でしたが、恵嬪同様に首陽の反対勢力であったため粛清を受けてしまいます。この二人は王女の男には登場しませんが、歴史上は重要な人物です。

こうやって、朝鮮王朝実録を時系列に沿って読んでいくと、いかにして首陽が反対勢力を粛清していったのかがよくわかります。また、これらの記録は勝者の記録であり、理由付けなどがでっち上げで、それが公式記録として残されていることも見て取れます。

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