韓国歴史ヒストリア

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朝鮮王朝最後の尚宮たちとその出自 覚え書と考察

   

宮廷研究の第一人者キム・ヨンスク(김용숙:2003没)の2著

「李朝後期内人生活研究(イジョ フギ ナインセンファル ヨング:이조 후기 나인생활 연구):1967年」・・・宮女は中人(チュンイン:両班と平民の中間)から選抜する。(存命中の元宮女の証言)

「朝鮮朝宮中風俗研究(チョソンジョ クンジュンプンソク ヨング:조선조 궁중풍속 연구):1987年」・・・宮女は元来、婢種(ピジョン:비종)から選出するが、守られないこともあったようだ。

元々朝鮮王朝の女性に関する記録は少ない。上記2著は存命だった元尚宮へのインタビューをまとめた貴重な資料だが、尚宮たちの回答自体が脚色されたものだったか、キム・ヨンスク氏が記述をミスしたのか、実録などを紐解いて解明された事実との矛盾点が多く、第一級の資料であるにもかかわらず、うかつには信じることができない。※婢種=奴婢

 

近年まで存命だった三尚宮

主人:最後の王后:純正孝皇后尹氏(スンジョンヒョファンフ ユンシ:순정효황후 윤씨:1894年 旧暦8月20日〜1966年新暦2月3日)通称・尹妃(ユンビ:윤비)

 

金命吉(キム・ミョンギル:김명길:1894~1983)

漢城で誕生し13歳のときに尹氏が皇太子妃として迎えられたことに合わせて入宮して内人(ナイン)となった。妃となる者とともに入宮する者を本房内人(ポンバン ナイン:본방 나인)というが、その当時は2人しかいなかった。

主従関係とはいえ60年間苦楽を共にした知己であり、英語、日本語を共に勉強した学友でもあった。度量が広く容貌も優れ聡明で昔の長老尚宮たちのような風格があった。尹氏の3年喪ののち、古屋で3歳下の妹氏と寂しくすごし、1983年享年90歳で死去した。

父は旧韓末評議会官吏であり、母は韓氏である。入宮したきっかけは、いとこのお姉さんが尹氏の祖母と親交があるからだったという。この方が幼い時に唐四柱をみると、頭にウイスンアの花をつけており、並々ならない運命を予測して宮女でなければ女僧が良いと言う。そこで、自分が父に隠し密かに決定したのだという。著書には”楽善斎周辺”がある。

 

朴昌福(パク・チャンボク:박창복:1902 or 3~1981.11.21)

1902年ソウルで生まれた彼女は、12歳の時に家の前を通りかかった尚宮の『きれい』という言葉だけを聞き宮中生活を始めた。最初は洗踏房(セタッパン:세답방)に所属。幼い年齢で尚宮のムチに打たれて宮中用語と身だしなみを学ぶことになった。

尹妃の至密(チミル:지밀)尚宮になって頭を整えたり体を洗ったりと、あらゆるお世話をした。昌徳宮楽善斎で尹妃を奉った歳月だけでも30余年だった。6.25戦争時に避難した時は米をもの乞いしてこなければならない程窮乏して過ごした。

尹妃が1966年亡くなるとすぐに宮中法度に準じ三年喪を行った後、普門寺(ポムンサ)に入った。尹妃の教えを守り一生節操を守った。

 

成玉艶(ソン・オギョム:성옥염:?~2001.5.4)

1933年普通学校を卒業した後、15歳の年齢で昌徳宮針房(チャンドックン チムバン:창덕궁 침방)内人(ネイン:내인)として入宮した。その時からキム・ミョンギル(83年死去)。バク・チャンボク(82年死去)の二尚宮と一緒に昌徳宮楽善斎(ナクソンジェ:낙선재)で30年間、最後の王妃尹妃を奉った。

尹妃の衣服担当だった彼女は末っ子なのでいろいろな種類の雑用を引き受けていた。しかし、おっとりした性格と几帳面な仕事の処理で尹妃の愛を一身に受けたという。

6.25時には尹妃と一緒に釜山で避難暮らしをしており、戦争直後には李承晩(イ・スンマン)政府が楽善斎を国有地にしたために貞陵の別荘に尹妃を迎えることもした。 尹妃は61年、楽善斎に戻ってピアノを演奏し仏典を読むみ暮らした。いつも私に『たとえ王朝は滅びても、宮女としての一分と権威を守らなければならない』と教え下さった。成氏は尚宮時代をこのように周囲に回想したという。

 

宮女の出自に関する法規定

A.1801年(純祖1)に内需司(ネスサ:내수사)奴婢と寺奴婢を解放し従良せた。その数は全部で66,067人。公奴婢(コンノビ)開放。

B.1865年に成立した朝鮮王朝最後の大典・大典会通(テジョンフェトン:대전회통)5巻刑典(ヒョンジョン:형전)の記述。

【本文】女官はひたすら各官庁の下典(ハジョン:하전:奴婢のこと)からのみ選抜する。

【注釈】内婢(ネビ:내비)は十分に補充することができるが、寺婢(サビ:사비)は、(国王の)特命なしに選抜することができない。良家(ヤンガ:양가)の娘は一切取り上げることができない。良人・寺婢を推薦したり、かけ送った者は、杖60回、徒(禁錮のこと)1年の刑に処する。

英祖大王行状(ヨンジョ テワン ヘンジャン:영조 대왕 행장)の1725年(英祖1)の臣下とのやり取りにも類似の内容がある。

C.1894年(高宗31)の甲午改革(カボケヒョク:갑오개혁)で奴婢制が完全撤廃されるまでは、この法典の内容は有効だったと思われる。

 

1801年の純祖の公奴婢開放と、1865年の大典会通の法文とに矛盾が生じている。税制や兵役上は公奴婢が開放されていても、知っ質的な身分制度においては開放されていなかった可能性が高い。

現代のように人の移動が流動的では無く固定的だったため、周辺からも出自の判断がつき安かったのではないか?また、官婢(公奴婢)である妓生(キーセン:기생)の開放も甲午改革であるため、純祖代の開放が無条件の完全開放とは思えない。

 

朝鮮末の尚宮たちの出自は?

大韓帝国末期の尚宮による中人(チュンイン)だったとの証言がある。 朝鮮末期から族譜の売買で両班でさえ急増していたため、あながちウソとはいえない。けれど大きな疑問点もある。それは、宮女になると結婚ができないことだ。

朝鮮末期に比べ大韓帝国期や韓国併合期はある程度自由が増している。そんな時代に嫁に行くことができない宮女を選択する理由がない。金銭的に逼迫していたからか?変わり者だったのか?答えはわからない。

ただし、ひとつの仮説として、宮女を輩出していた家柄だったのではないかと想像できなくもない。要するに旧公奴婢だ。この時代でも宮女が両班出身だと権力基盤を築くおそれがあるため、極力なんの力もない家から宮女を召抱えるはずだ。そして当時の尚宮たちがコンタクトの取りやすい家柄となると、やはり自分たちと同様に公奴婢出身者だと思われる。

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