韓国歴史ヒストリア

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チャン・ヒビン2

      2013/09/07

1684年1月21日に粛宗(スクチョン:숙종)の母・明聖王后(ミョンソンワイイフ)が亡くなると、張玉貞(チャン・オクチョン:장옥정)を阻害する要因もなくなり、三回忌が終わった1986年に再入宮することとなる。

西人(ソイン:서인)勢力の張尚宮(チャンサングン:オクチョンのこと)に対する牽制と連動して、仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)も何かと牽制を始め、宮外へ追いだそうとする。   ドラマなどでは善人のように描かれている仁顕王后(イニョンワンフ)だが、牽制のためにキム氏を側室に迎えたり、訓戒したりしたようだ。

粛宗は仁顕王后とキム氏から張尚宮を遠ざけるため、中宮殿と後宮の居所がある昌徳宮(チャンドックン:창덕궁)ではない昌慶宮(チャンギョングン:창경궁)に秘密裏に堂を建築した。

チャン・ヒビン イ・ソヨン

 

1686年12月、張玉貞従4品淑媛(スグォン:숙원)に立てらる。

冊封されると西人はうかつに手が出せなくなった。すると、仁顕王后は粛宗に直接排斥を訴え始めるようになったと実録に記録がのこっている。

母后が夢に出てきて昭儀張氏(ソイチャンシ:オクチョンのこと)は怨念を持って生まれ変わった獣の化身で、不純な南人(ナミン:남인)と結託しているだとか、子を産む能力を持ち合わせていないとか。

改めて確認しておくが昭儀張氏の言動ではなく、仁顕王后の言動である。

 

1688年正2品昭儀(ソウィ:소의)へと昇進した。

そして遂に、同年10月27日、王室待望の王子昀(ユン:윤:後の景宗)を生む。

1689年(粛宗15年)1月15日、その功労により内命婦の品階で最高の嬪(ピン:빈)に冊封し禧嬪(ヒビン:희빈)と号された。張禧嬪(チャン・ヒビン:장희빈)の誕生である。

昀は元子に冊封された。元子定号(ウォンジャジョンホ:원자정호)

 

さらに1689年(粛宗15年)5月2日、仁顕王后は廃され、その後、張氏が王妃に冊立された。

この朝鮮史上唯一人の中人出身の王妃の冊立によって西人派の専横に終止符が打たれた、替って南人派が権力を握ることになった。

これを己巳換局(キサファングク:기사환국)という。

このとき王世子冊封に異を唱えた中心人物が、朱子学の大家で西人・老論(ノロン:노론)の領袖宋時烈(ソンシヨル:송시열)だ。 彼は済州島への流刑の途中、死を賜った。(後に復位)

 

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