韓国歴史ヒストリア

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チャン・ヒビン3

      2013/09/30

仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)とともに失墜した西人(ソイン:서인)では、金春澤(キム・チュンテク:김춘택:1670~1717)を中心に閔氏(ミンシ:민씨:廃庶人となった仁顕王后)の復位運動(閔氏重定運動)が展開されはじめた。

ちなみに謝氏南征記(サシナムジョンギ)の作者金萬重(キム・マンジュン)は彼の祖父の弟となる。

この謝氏南征記(サシナムジョンギ)が蔓延し、女官が見ていたものを粛宗が見るにいたり、ほだされた粛宗が仁顕王后の復位を決心したとの説もあるが、実際には南人(ナミン:남인)勢力の抑制のためである。

 

南人の権力がかつての西人のように増長することを危惧した粛宗が、仁顕王后(イニョンワンフ)を妃に復位することで張氏を後ろ盾にする南人派を牽制しようと企んだことにより、1694年(粛宗20年)4月12日には張氏は王妃から嬪(ピン:빈)の位に格下げされ仁顕王后が復位した。

これら一連の、南人が退き西人(ソイン:少論と老論)が再び掌握した政局を甲戌換局(カプスルファングク:갑술환국)という。

 

1701年(粛宗27年)8月14日に仁顕王后が病没する。 南人は当然の流れで張禧嬪(チャン・ヒビン:장희빈)の復位を求めた。この主張は老論(ノロン:노론)と淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)、それだけでなく粛宗にも受け入れざる主張だった。

淑嬪崔氏(スクビンチェシ)は王妃の死は張氏が巫女を使って呪詛したためだと主張した。

仁顕王后(イニョンワンフ)も生前にそのようなことを口にしていたという。

実際にはその住居である就善堂(チュィソンダン:チソンダン:취선당)に神壇をつくり巫女を招いていた。

朝鮮では国教が儒教だったため、ムーダンは異教だった。

けれども、粛宗の母・明聖王后(ミョンソンワンフ)も王の病気の回復を祈願したし、民間でもしばしば利用されていて、それ自体を罪に問うことは難しかった。

 

また、神壇の設置は王世子の病気の回復を祈願してのことだとの女官の首長もあるように、すでに既成事実化され、粛宗も知っていたはずである。

結局、王妃への呪いが行われたこと、その言質をとったことが決定的となり、罪が確定された。

粛宗はまず、済州島へ流刑中の張禧嬪(チャン・ヒビン)の兄、チャン・ヒジェへの処刑を命じ、続いてに対する自刃の命を備忘記に記した。

王世子の母を処刑することへの反対意見も出されたが覆されることはなかった。

その後、事件に関係すると思われる宮女など、ありとあらゆる人々を拷問にかけ処刑した。

 

1701年10月7日、粛宗は嬪御(ビノ:빈어)を后妃(フビ:후비)に昇格することを禁止する法をつくった。

2度とこのような悪例を再現させないためであるが、淑嬪崔氏(スクビンチェシ)と老論への牽制の意味もあったかもしれない。

翌10月8日、承政院(スンジョンウォン:승정원)を通じて公式に張禧嬪(チャン・ヒビン)に自ら命を絶つよう御命をおろした。

1701年陰暦10月10日、粛宗は張禧嬪(チャン・ヒビン)の死を公表した。享年43才。   これら一連の出来事を巫蠱の獄事(ムゴエオクサ:무고의 옥사)という。

 

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